ふじみ野市立福岡河岸記念館



 「新河岸川舟運と福岡河岸

寛永15年(1638年)の川越の大火で焼失した仙波東照宮の再建資材を、江戸から新河岸川で運んだのが舟運の始まりとされています。
舟運が本格化したのは正保4年(1647年)頃といわれ、その後近隣農村の開拓によって農業が発展すると、農村と江戸を結ぶ物資輸送の中継地として多くの河岸場が設置されるようになりました。
地の利を生かした福岡河岸もその一つで、享保18年頃から福岡村の人々が回漕業を営み、安永2年には3軒の船問屋が幕府から公認されました。
天保2年以降、吉野家・江戸屋・
福田屋が仲買商を兼ねながら船問屋を営業していました。
対岸の古市場河岸
(橋本家)と共に、福岡河岸は明治時代に最盛期をむかえ、新河岸川舟運は、昭和初期まで約300年間続きました。
                                  「参考:ふじみ野市立福岡河岸記念館資料より」




奥に見える3階建ての建物は、明治30年代に建てられました。
大正12年の関東大震災でも微動だにしなかったそうです。
  
 





東側からみた外観




北側からみた3階建ての離れ。




帳場




主屋の書院の間

 左上に「神道無念流道場壁書」という、江戸時代中頃に起こった剣術一派「神道無念流」の教えを記した横約4mの額が飾られています。




天袋には時代絵巻のような珍しい絵が描かれていました。




帳場から書院の間まで見たところ



珍しい亀格子の部屋は昔は風呂場だったそうです。




  








剣術家でもあった星野仙蔵は、階段入口の上に亀の剣術姿を描いている。





「離れの2階」。黒檀の床柱、秋草文様の繊細な襖は見事です。b



「離れの2階」。




 「離れの3階」。濃緑と乳白のギヤマンを散らした、モダンな当時流行のステンドガラスを使用しています。



左の障子の中ほどにあるガラスは凝ったもので、中央部を透き通しとした他は松葉散らしを意匠したすりガラスで見ごたえがあります。
右の正面の柱は10mほどの長さもある通し柱で離れだけで6本もあります。東日本大震災でもびくともしなっかったそうです。
 
  


腰板に浅い浮き彫りで示した近江八景は見ごたえが有りました。



欄間の彫りには同じ絵柄はないそうです。
  



3階から東方向を見ています。
左の橋の下辺りに船着場を造る計画があるそうです。
対岸には古市場河岸(橋本家)がありました。




 実は二本の紅葉の木の間からかすかに東京スカイツリーが見えています。





福田屋のなりわい





第十代 星野仙蔵











新河岸川舟運の衰退と東上線の開通





当時の台所










紹介の扉へ



扉 へ