「南古谷」歴史散策A
(古市場村〜木野目村を訪ねる
 


     
  【観音寺、六地蔵】
「風土記稿」に観音寺は「天台宗、古尾谷本郷
灌頂院門徒、大悲山慈眼院と号す」「灌頂院の
鐘の銘に、今泉村西蔵院大僧都法印良賢が
檀那となりて、正保4年(1647)9月造りし
由見ゆ」とあります。
 
   
共同墓地の近くの吉敷家の私有地には、薬師堂
が建てられ、下のように六地蔵も安置されている
 
   
     
  【西河原地蔵尊】
この地蔵尊は、延宝5年(1677)と記されている
。 延宝のころ、新河岸川(当時は江川)沿いは、
常に水害を受け、犠牲者が多く、中でも子供の
犠牲者が多かった。その供養のため附近有志が
地蔵尊を建立したという。

明治に至るまでに3回も火災にあい、屋根を失っ
た。この地蔵尊は屋根が嫌いなのだろうと、それ
以来「屋根なし地蔵」と言われるようになった。 

 
   
     
  神明神社、稲荷神社 
神明神社は大日霊貴命(おおひるめのむち)を
祀り、江戸期まで天台宗大悲山観音寺持とある
が、実質的には二代目住職が没後、今泉村の管
理となっていたようです。
 
   
  神明神社に旗本河野吉之丞が慶応3年に寄進し
た下のような手洗いが残っている。 
 
   
     
  【獅子宮 氷川神社】
「風土記稿」によれば、獅子明神社は通称獅子
の宮、江戸期後半には獅子宮大明神と称し、古く
から古市場、渋井、今泉の鎮守であり、古谷本郷
灌頂院の支配であったが、後真福寺持となると
記されている。
 
   
     
   
     
  【養老橋】
越の繁栄をもたらした、江戸時代からの新河岸
川舟運最盛期には「にぎわう江戸、川越、古市場
」と言われるくらい栄えたという。その証に「店(た
な)」といわれた料理屋、「宿」という屋号の家が
それぞれ数軒ある。
新編武蔵風土記稿(1810年起稿1830年完成)に
は橋の長さ十二間余(約21m)、川幅十三間余(約
24m)で橋の名は「古市場橋」とある。従って養老
橋と呼ばれるようになったのはこれ以後の事と思
われる。
 
   
     
  【九十川】
2013年10月26日の大雨でこの川が氾濫寸前
となり、川越市が避難指示を出した川。
あと、30cm〜40cmほどの所まで水位がきたこ
とが見てとれます。
 
   
     
  新河岸川の土手を歩いて旭橋に向かっていると
ころ。
 
   
     
  【旭橋】
牛子河岸は寛文四年(1664)に川越藩主松平輝
綱によって開設されたといわれている。牛子河岸
開設の目的は前藩主信綱が開発した瓜、茶栽培
のための葛西灰などの肥料を運送し、荷揚げす
ることにあったという。

牛子地区に高道という道がある。今の県道今福
木野目線のことである。

水防のために作った道路の高さをめぐって牛子
地区と南田島地区が争った。それが論所となった
 
 
   
  【新河岸川河岸場跡】
旭橋のそばにある。
 
   
     
  【稲荷神社】 
寛政七年(1795)乙卯二月初牛日、江戸隠士天爵
敬書」との銘をもつ10メートル余りの幟(のぼり)
がある。

祭事は年1回初午の日と定め、年番で行っている

祭日には村人が集まり、力石といって、60キロ位
の重さの石を持ち上げ、力くらべなどをして遊ん
だ。その石は今でも神社境内に置いてある。
 
   
     
   
     
  【氷川神社】  
南田島は九十川と新河岸川の間に広がる低湿
地で地味が良いことから、水稲を主体とする農業
地帯であるが、低地であることから水害が多く、
河川改修以前は蛙の小便でも水が出るといわれ
るほどであった。

このような土地であったので、川を鎮め、五穀豊
穣をもたらす神という氷川様を村の鎮守として祀
ったのが当社の起源と考えられるが、度々の水
害にあい、一切の歴史資料を失っているため、
詳しい由緒はわからない。

ただし、「風土記稿」には、「氷川神社は天和二年
仙波喜多院境内に祀れる氷川を勧請すと云、村
の鎮守にて薬王寺の持」とある。
年間の祭事は1月1日元朝祭、4月14・15日春祭
礼、10月14・15の秋祭礼の3回。境内の八坂神社
の祠を当社の拝殿内に移し飾り、子供の祭りで
ある天王様の神
事は7月14・15日に行っている。
また、祭典後祭囃子や川越市指定無形文化財の
足踊りが奉納され、年によっては屋台の引き廻し
等も盛大に行われることがある。
 
   
     
  【薬王寺】
薬王寺は明治初年、神仏分離まで氷川神社の別
当を務め、現在も氏子のほとんどを檀家にもつ
天台宗の寺院である。

天台宗金光山宝勝院薬王寺の由来は、江戸初
期慶長元年(1596)権大僧都栄仲法印が草庵を
建造したものとされ、阿弥陀如来を本尊としてい
る。
当時大洪水により、不思議にも薬師如来像が流
れ着いたのにちなんで、薬王庵としたのが始まり
という。
 
   
     
 

【薬師堂】
金光山宝勝院薬王寺の薬師堂と称し、本尊は薬
師如来である。創建は不詳であるが、薬師様とし
て人々にあがめられている。

文化2年(1805)11月改築、元治元年(1864)1月
29日焼失。現在の建物は星野山喜多院より材料
を得て明治2年に再建、大正4年瓦屋根替を行う
。昭和53年屋根を銅版葺に改築した。
 

 
   
     
  【浅間社】男山。
通称大塚山(男山とも呼ぶ)の山頂にあり、石祠
に「富士浅間大明神菩薩、安永五年(1776)十二
月吉日」とある。伝説によると大洪水に遭った難
民に収入を与える手段として、木野目の長者が
築いたものといわれている。

洪水時、農耕用牛馬の避難場所の水塚であった
という説もある。
50〜60年前は男山とは言わなかった。
 
   
 

女山。
愛岩社は通称あたご様。浅間社と同じ木野目の
長者が造ったといわれる塚の上にある。この塚
は大塚山(男山)よりやや小さいことから「女山」
とも呼ぶ。石祠には「愛岩山大権現、安永六年(
1777)二月吉日」とある。
 

 
   
     
  【稲荷神社】
別名は「仁寿(にんじゅ)稲荷」といい、五穀守護
の神として勧請された。祭神は宇迦乃御魂命(う
かのみたまのみこと)で、内陣には神使である白
狐が二体祀られている。

社殿はいつ頃造られたか定かではないが、現存
する二枚の棟札によると、一枚には、「嘉永五年
(1852)九月吉日、正一位稲荷大明神」とあり、も
う一枚は明治27年のもので「小屋直シ瓦屋根新
築」と記されている。

 
   
     
 

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【六角共同墓地】

「享保八年中興開山堅者法印伝雄」などの石塔(
無縫塔〔むぼち
とう〕)があることから、この辺りが
吉祥院の跡ではないかと思われる。「新編武蔵
風土記稿」に、吉祥院は天台宗古谷本郷灌頂院
の末寺とある。中興開山は伝雄といい、享保八
年(1723)に亡くなった。

古老によると吉祥院は天台宗の寺で、渋井の蓮
光寺よりも大きかったが、いつの時代か廃寺とな
って、現在では、ほとんどが蓮光寺の檀徒になっ
ている。

享徳三年(1454)の板碑 

 
   
  【観音堂】 
木野目長者が娘の慰霊のために建立したと伝え
られている。この観音様は姉娘の慰霊のもので、
新河岸に妹娘の慰霊のための観音様を建立した
と伝えられている。

建物が六角形をしていたので、その付近を六角
と呼ぶようになった、という。昭和60年六角形四
角形に建て替えた。

 
   
     




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